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ヘアサロン領域

2014.02.26

~この道は誰も歩いたことがない道 だから自分で道をつくるんだ、と~
日本にまだカラーリストという職業がなかった時代、デビュー2年目でハサミを置き、カラーリストとして身をたてる決心をした高原さん。
今でこそ、日本にヘアカラー文化をもたらした第一人者として知られる彼女も、厳しい下積みの日々を過ごしていました。

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第1章

インタビュー

PROFILE

高原 紀子

1970年生まれ。kakimoto armsに入社後、スタイリスト2年目で渡英。世界的カラーリストのダニエル・ギャルビン氏にヘアカラーを学び帰国。
日本を代表するカラーリストとして講習に撮影に全国を飛び回る日々。39歳で出産し、復帰後もさらに活躍の場を広めている。

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デビュー二年目に日本初のカラーリストへ転身

 「なあ、高原。海外にはカラーリストという職業があるんだってよ。お前、その道を極めてみないか?」。高原さんが柿本榮三さん(現カキモトアームズ会長)に声をかけられたのは、デビュー二年目のこと。最初は「カラーリストって何? 私にハサミを置けということ?」とその話を断った高原さんでしたが、柿本さんに誘われて行ったロンドンでの体験が、彼女の人生を変えます。
 高原さんを迎えてくれたのは世界的カラーリスト、ダニエル・ギャルビン氏。日本ではヘアカラーといえば白髪染めをさした時代に初めて見たホイルワーク。お客さまの髪色が次々変わるさまを目の当たりにし、高原さんは一瞬でカラーリストの仕事に魅せられます。
「日本の女性にもこんなカラーがしてみたいと言ったら、ダニエルは『それは素敵なことだね。日本の女性はまだまだキレイになる余地がある。黒と白の間には無限のブラウンがあるんだよ』と教えてくれました」。そして同時に「NORIKOはこれから伝道師になるんだよ。今まで誰も歩いたことがない道を歩く覚悟が必要だ」とも。
 すでに心は決まっていました。「私、専任のカラーリストになります」。帰りの飛行機で、高原さんは柿本さんにそう宣言していました。
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怒濤の20代・30代を超え、家族を持ち充実の40代へ

 とはいえ、最初は一人もお客さまが来ない日々。毎日モデルをハントをして作品撮りをし、そのブックを持ってお客さまにプレゼンをし続けました。柿本さんと一緒にセミナーに呼ばれたのに、受講生が三人しかいないことも。ノーギャラでの講習会も何年も続きました。それでも辛いと思わなかったのは「この道は誰も歩いていない道。楽なはずはない。自分が道をつくるんだ」という意識があったから。以降の活躍は、周知のとおり。連日の撮影と講習、サロンワークで日本にヘアカラー文化を根付かせる第一人者となりました。
 全国を飛び回る高原さんの生活が一変したのは出産がきっかけ。次に自分がつくる道は出産後も活躍できる仕組みづくりだと、会社と話し合いを重ねてきました。
 高原さんの出産後、カキモトアームズではママ美容師が増え、それぞれの生活スタイルにあった働き方を選択しています。高原さん自身も、ご主人に協力をしてもらいながら、家族の生活に無理がない働き方をしています。「母親になってからまるくなったとみんなにいわれます(笑)。許せることが増えたのかもしれない」。カラーリストとして、女性美容師として、道を拓いてきた高原さん。今後も多くの後輩たちがその背中を見て歩くのでしょう。

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高原 紀子さん

出産してもあっという間に復帰してバリバリ働くと思われていたみたいです。産休が1年を超えたときは、柿本も少し心配になったようで、名古屋まで様子を見にきました(笑)。産前と同じペースで働く方法もあると思うのですが、無理なくトライするのもひとつの方法。先輩が無理をすると、後輩ママも辛くなりますから、バランスのいい働き方を探すのも大事ですよね。

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